2019年11月
Be calm
私はダウナー型人間である。
アッパーな空間にいてさえ、ダウナーへと自分に取り込み浸透させる事ができる。
外へ向けて某か、例えば対人間へと好戦的になるときは、その反作用に過ぎない。
ダウナーでいられないストレス、またダウナーからひとつ横にずれればそれはダウナーではなく、ならばダウナーを求める意味も無くなり、両極端な私はアッパーな行為へと振り切る事もしばしば。
さてここまで述べたところで、潜在的なものと顕在化しているものを、すべて見透すなど意味があるのだろうか?
そしてそれは人間同士のあいだで相互いに見透せるものなのか。
知らぬ。
しかし推し量る、という心理的行為が私は好きだ。
▲Fucking Lipsである。
私の事が欲しいなら欲しがり続ければいいと思う。
ここでこちらを推し量ろうとする行為など無意味に等しい。
与えられないかも知れない、そう思えば思うほど欲しがり続ける人間は多い。
そういう人々はきっと、危うさのない関係性や行為には飽き飽きしているのでしょう。
しかし私はダウナーなのである。
三十二才になりました。
たくさんの方にお祝いして戴きました。
ありがとうございました。
私亜きら、三十二才。
体感として三十二年間生きてきた時間が体の内側にあるから、そりゃあ三十二歳だよなと思う。
強く思う。
だって色々あったもの。
糞あったもの。
7才の私も14才の私も19才の私も、みんな私だし覚えてる。
そしてみんな今の私の要素の一つ。
全てではない。
変わったところもあれば変わり続けていくものもあるし、ずっと覚えてるものもあれば忘れていくものもある。
だけど私なんだな。
自我なんて、自分の記憶をまるごと失ってしまったら無くなるような、記憶の構築と相違ないと思い込んでたけれど
そうと決めてかかるには早計かもしれないな。
まだこの世に生を受けて32年だからな。
長く生きたいとかずっと若くいたいとか望まない。
ただいつか一人ぼっちになったときに、私にも幸せな時があったとひとり思い返すような未来だけは嫌。
絶対に嫌。
たぶん生きていけばこの先、そう思うときが必ずあるから。
恐れているだけ。
怖くない不安がない日々なんてないのにな。
春のACOちゃんとの生クリームメッシーのやつ。
暗いところからやってきて暗いところへ帰っていくだけ
時が過ぎるのは早いね。
無常を思う。
また私の誕生日がやってくる。
どうと言う事もないのだけれど、ただやっぱりいつか自分が死んだ時には、死んだ日より生まれた日を覚えていてほしい。
ここにきたって記憶だから。
十一月十五日。
どんな形でもいいから私を思い出してくれ。
どんな形でもいいから私をお祝いしたい人はこれを。