亜きら - 抒情の部屋 -

初めまして。 京都SMクラブ傀儡堂、京都バルバラに所属している亜きらと申します。 素敵な時間と世界を共有しましょう。

2019年09月


疲れている。
なにかに。
途方もなく、穴を掘り続けた底に埋もれていたい気持ち。

京都の町は嫌いじゃない。
ここに居を移してもうすぐ一年。

電飾ギラギラしていないし夜は暗いし、高い建物がないから閉塞感もない。

けれど、鴨川は少し小さすぎる。
侘びしい。京都の町は。

淀川のあの、十三側の河川敷から眺めやる、遠くに聳える梅田の都市群を見るのが好きだった。

夜の景色。
赤い航空障害灯がまるでロボットの目の光か、怒りのオウムの群れのようで。
広大な夜の淀川は、眠れる獣に思えて、流れの止まって見える硝子のような川面が美しかった。

日中の猥雑さを夜がすべて消しやって、百八十度どこまでも淀川で線引かれたあの光景は、とても私の気質にあっていた。

夜空もまたよく眺められた。
星はぼんやりながらも、大きな夜の空だった。
あの河川敷で流れ星を見た事も一度や二度ばかりじゃない。

なぜこんなにも懐かしく、そして欲しているのだろう。

鴨川に夜、座って眺められる景色は、乏しすぎる。私には。
それだけ。

良いも悪いもない。
大阪の街にいては、自分の存在の孤独感をありありと感じられた。
しかし京都では、すべてが溶け込んでいくよう。

鈍ってしまいそうで怖い。
なんとなく、感覚の生煮えてく恐怖を覚えた或る秋の日。


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ただの郷愁の戯れ言とはわかっている。 
いつもの世迷言。
しかし
気のせい、だと一蹴できようか?




浅はかな人間ではいたくない。
思慮深い人間でいたい。
だけど自分の感情と直感は確実に逃すことなく捉え続けていたい。

何かに思わず後悔したときに、誰かのせいにしたくないから。
あの時の自分がそう決断したことなら仕方ない、そう思える自分でいるため。

涼しい秋の夜長と思い、久方ぶりに走ったら気持ち良すぎて死ぬかと思った。
もっと涼しくなっていい。
冷たい空気を胸に吸い込みたい。

脳みそ冴えるあの感覚。
冬が今から楽しみでどうしようもない。

思うこと。
できれば指一本触れたくない。
指一本触れずどうにかなればいい。

だけど催眠とか脳イキとか、そういうのじゃない。
テクニックの話じゃない。

ただ感情だけで私へのレスポンスを示して欲しい。

だから、猫を見てると私はどこまでも愛しい。
あぁ、撫でて欲しいのね。
とか
ごはんが欲しいのね。
とか
言葉のない感情の表し方。

遠いそこからでもわかる、背中で物語るエネルギーの放出性とか。

BODYという映画の、ウィリアム・デフォーとマドンナのセックスシーンをぼけっと見てた。

マドンナがサディスティックな女性役の、チープな映画だったけど
ベルトで締め上げた彼に蝋燭垂らしたりワイン垂らしたり、
「My way」と囁くマドンナは美しかった。

それらは愛しさの上の行為でしかない。
セックスがゴールだから。

愛と言う名の性行為とSMを別としたとき、
感情とSMは交錯できるのか?

成り立つわ。必ず。

痕をなぞって愛しさを覚えはじめたら、それはもう病。知らんけど。


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自由の反対、自由じゃない状態とは、分りやすく、かつ自由を奪われたと言えば拘束でしょう。

勿論私も好き。
縄で拘束した相手を転がして、放置しておく事がたぶんいちばん好き。
拘束した状態で言えば。

一度、相手を縄で縛ったまま、その隣のベッドで私はスヤスヤ眠った夜があったけれど
とても良かった。
それを是とせず、拘束された状態でどうにかされたい人々が多いことも承知だけれど。

前置きはさておき、しかして私は自由の反対とは、規則、制約、統制。
だと思っている。

刑務所での囚人の生活など、とても良い例で私の好む掟の上での生き方。

己の自由判断で行動できず、規則や時間で縛られると言えど、苦しむのは最初のみ。
何故なら、人間には耐性と適応力が備わっているから。
さらに言えば、忘れるというオプションまで脳内は働いてくれる。

慣れてさえくれば、最初の苦しかったことも忘れるのです。

SM行為においても、痛かった事や苦しかった事は覚えていても、仔細な痛みまでは記憶していないから、その痛かった事や苦しかった事の果ての何かをまた求めるのかもしれない。

とにかく、言葉での制約が成立すれば、それはとても気持ちが良い。

縄や拘束具を使わず、まるでそれらでもって拘束されてるのかのように、
私の「動くな」の言葉で身動きできなくなる。
一切。

精神支配とかそんな大層な事でなく、ただ目に見えないなんとも脆弱な言葉というものの力で相手が屈している。

素晴らしいでしょう。
ただそこまで辿り着くには、少なくない時間を要したい。

ゆっくりゆっくり。
一年、二年、三年。
そしてさよなら。
なんちって。

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秋らしい夕空の下、大好きなRadioheadを聴きながら歩いた。
それはそれは快かった。
秋の風は心を透く。

少し感傷的になるかと思いきや、
情緒的になる具合も、やはり若い頃と比べると随分マシになったと思う。

そしてそれを寂しく思う。
ある意味での感傷。

秋の気配を感じるだけで泣いてた自分を思い出す。

たとえ外の世界がどうあれ、自分は自分でしかなくて、
だけどやはり外の世界と内の自分との融合に音楽が介在すると、
心でじんわり何かが生まれる。

それを忘れたくない。

これが私だ、とも思う。
いちいち何かに感じ入る。

五官で感情を掴むような、
胸のあたりに浮かぶほわほわしたもの、
それを脳内で感じられなきゃ
世界は無に等しい。

世界を見ても美しいと思わなければ、心が感覚が脳みそが反応しなければ、世界は美しくないのだ。

あぁ秋から冬っていい。
とてもすき。
ずっと感じていたい、秋の気配。

漂うものや匂うもの、見えるけど触れられないもの。

愛しい。
それだけ。

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自分の内側の世界を、どのようにして表現するか、どんな方法よりも私にはやはり言葉として綴ることが何より心地がいい。

だがこの記事の文章は少し雑であるのは内緒。
書き殴り
殴り書きではなく書き殴り。

おしまい。




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Show must go on 
とは。
SM Playにおいても同じでしょう。

頭がいる。
頭を回しながら、思考ではなく感情を見せたい。
ShowにおいてもPlayにおいても。

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男性性と女性性の違い。
ちんこのあるなし。
私たちとあなた達は違う。





昔の日記を読んでたら死にそうになった。

でも当時の私の文章の方が、キレがあって破壊的でカオティックで、とても情動性に溢れてる。

現在あんな風にはもう書けない。

まだ何もかもを妥協できずに、またすべてを許せずに、そして底へ底へと、自分の小さな水槽のなかでぐるぐるぐるぐる沈みつ浮きつしている幼かったゆえのもの。

大人になるって、ほんとうに、ある意味何かを諦め続けることだとも思った。

処世術のしたたかさ。

「もう、いいの?」
そう悲しげに問う自分の寂しげな顔が、時おり顔を覗かせる。

しかもなぜかこちらを振り返りながら。

想像力は豊かです。
空想家です。
夢か物語かさえもたまにわからなくなる。

あぁ、だけど
やっぱりたまに忘れたふりをしている事への罪悪感で、胸が痛い。

こういうときはチョコレートを食べるに限る。



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秋は私の生まれた季節。
十一月。
冬との境目。


着地点が違えば、そこに到達するまでの岐路が変わるのも当然。

同じχを起用したとしても、与えられる側が違えば、結果が変わるのもまた道理。

何が言いたいか?
SMプレイにおいて、何が好きですか?と聞かれるのをいちばん好まぬ。

私の事が好きで、私の存在を求めている、という大前提でなら話は別だが。

しかしそうも言ってられないのがこの御時世。
基本的に、行為で話すのなら縄と呼吸管理、そして打擲がすき。と言うべきであろう。
どこまでも見下げたい。
男性性の欲とその象徴であるちんこを。

しかしそんなの私の気分と相手が変われば、通らなくなるのだ。 

私の手で操作性の良い、と思える行為を経てのSMプレイは楽しい。

相手に考えさせる時間を与えるのも好きだ。
冷静に、冷静に、どこまでも冷静に、自分という人間について内省すればいいと思っている。

もちろん私達はプロである。
君=君
ではなく、
君=君+χ 
へと導けたら、これほどの気持ちよさはない。


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痛みが気持ちいいのではなく、その人からの痛みであるから気持ちいいのでしょう?

これへの答えの如何によっても、ここからはじまるSMプレイはまた変容する。

どれが良い、悪い、ではない。
心地のいい空間でいられる相手が必ずいる。私はそう思う。

欲しがり続けること。
それだけ。




私のブログ。
この、ブログでの私の綴る文章。
そこに描かれる抒情。

全く理解ができない、
何を言ってるかわからない、
等々はよく言われる事である。

しかしこのブログを見て私の言葉でもって何か琴線に触れた人々が、まま現れる。

ブログを見てやってくる変わり者たちが。

勿論嬉しい。
少し照れ臭い。

基本アウトプットしてしまえば放り投げたも同然なので、あまり読み返さない故に
推敲は馬鹿みたいに重ねるので、とても大事な言葉たちです。

私は私の内面を、自分だけの世界を、言葉で表現できなければ死んでしまう。

過言ではないと思っている。

その昔、お世話になっていた師に言われた言葉。
「お前は自分の世界に生きすぎている。もっと外の世界で生きなさい。」

あれから十余年。
誰かの世界と自分の世界の橋渡しできることを学んだ私は、それなりにそれなりの人間生活を送れていると思う。

時々、ぼんやり寂しくなる。
ずっと、自分だけの世界で生きていたかったな、と。
しかしそれは広い広い大きな世界を知ったことによる、自分の存在を萎縮させてしまう弱音だとも思う。

外の世界と向き合うには多大なストレスが発生する。
そのストレスの内側か外側に、得られる不思議な何か、恐らく経験せねばわからぬものが何かあるはず。

希望とは悲しいものだ。
期待してしまう。
あるかないかわからぬ未来の事態に。

射幸心に満ち満ちた人生よ。
欲しがる事をやめてはいけない。

今夜も世迷言。



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終わり。






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午前四時。
この苔とシダだらけの世界で、私一人の存在感を踏みしめながら、私はとても幸せだった。
心地よき湿度。

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キャンプに行ったときの朝に、ひとり目覚めて散歩したときの話。

息をするたび、湿った空気が体内に吸い込まれて、「あぁ緑と一体化するな」ってほんとうに思った。

私は山や地の人間らしく、だからか山にいると、ほんとうに山に溶け込んでいく錯覚をおこす。
死ぬほど気持ちいい。
ちなみに気持ちいいの最上位は、「死にたい」だと私は思っている。

占いの話ではあるが、私はカラカラに渇いた大地のイメージらしい。
でもだからこそ、水を求めるんだと思う。

気違いほどに、水の感覚、景色、冷たさ、すべてを愛してる。
 
何度も話してるけど、どんな形にもなれるのに、触れると感触のない水にどこまでも惹かれる。
そしてそんな人間でありたいと思う


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老けた草野マサムネがかっこよすぎて自我を失いかけた。
素晴らしい歳の重ね方、
そして命の削り方。

いずれ命あるものは終わる。
形あるものは崩れる。

根っこさえあれば生き続けられる植物が羨ましかったけれど、
死してなお朽ち木として在る木々はもはや恐ろしい。
 
いつか死んじゃうから。
今あるものも今いる場所も今見えてるものも、明日には変わり得なかったとて、十年後にはすべて消滅しているかもしれない。

自分さえ。

信じられる?
私はそれらを理解できないから、今を信じようと必死でいる。

今あることすべてを忘れないでいたい。  
できるだけ。
ちょっぴりでもおおく。
   
記憶力すこぶる悪いし、嫌な事ばかりでなく嬉しい事も擦りきれてくとわかってるから。

誰かの記憶の底にいられたらそれでいいのにな。


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残暑もやわらぎ、一雨ごとに涼しくなって参りました。

そんな時候の挨拶がとてもすき。
    
秋がすきだからまだ来ないでほしい。
訪れたら、終わっちゃうから。
一日が終わると季節がすすむ。
そうでしょう?

いま、なにができるか。なにをするか。

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