春は憂う。
きらきらした春光や陽光なんて最悪。
どこかで春の日の嫌な思い出があるんだろうと思う。
それを思い出したくないのに、もう少しで思い出しそうな気持ちにさせられるのが春。
それは子どもの頃の淋しさに似た焦燥感で、だから私は今年も春を嫌う。
毎年毎年のこと、しかし「春が嫌いだ、憂鬱だ」とまるで呪詛か気が触れたようにひとり嘆いて喚いたとて、春を遠ざけられた試しがない。
我ながらそろそろ春を憂鬱気味に傾けるメランコリーがうざったいお年頃、
つまりもはや様式美と化した春がキライ病へようこそ。
そんなメランコリーを分かりやすく表現してくれているのがこちら↓
で、だからって春に負けるのは嫌。少しでも春を(受け入れ)慈むために、
春に纏わる作品を読むこと。
これがいわゆる私の春の慣わし。
とは言え、いつも読むものはだいたいおなじ。
坂口安吾の桜の森の満開の下、これは必ず読み返す。
春がくると読みたくなるのか、読まなくちゃいけないのか読まずにいられないのか、もはやわかりませぬ。
桜が人を惑わす美しき妖しやの世界。
単純に物語として大好き。
あと萩原朔太郎の自慰的沈鬱詩たちもデフォ、マストアイテム。
活字のうちでもやっぱり私は詩がいちばん心寄せられるものなので、読むのも易しいゆえに最近は詩集ばかり。
春の詩を調べるうち和歌に辿り着いてちゃっかりハマリ中だけどそれについてはまた今度。
詩における表現について、正しい正しくないとか私の脳みそでは足りん知識なので、ただ感覚的に「いいな」と反応するものがあるかどうか。
然して今年は春対策の一冊に宮沢賢治の春と修羅を、久しぶりに読みまして。
あのお人は高度なメルヘン坊やと言いますか、すべてが空想ならまだ追いつける気がするのに日常との境がなくてマジでわからん。
だから天才ってことにしておく。
もうひとつ、春と名のつく作品を漁っていて見つけた竹下夢二の「少年・春」が素敵だった。
絵描きとしての印象が私のなかで大きかったけれど、この出だしの描写から引き込まれちった。
心がぐいって、なる瞬間ていいよね。
普段の生活のいつでも起こりうることで、食事にも道端にもSMの行為にも、
心ときめくレーダーが反応すればそれは欲しがって然るべきかと。
私は割りといつでもアンテナ開けてるよ、だから色々なものを見誤らないようにしないとだめ。
相手と自分の化学反応による何がどのようにして、この空間と時間を構築したんだろうってな事を考えてると、気があわない人に対峙するときもちょっぴり楽しい。
し、今日は楽しかった相手と明後日も一ヶ月後もずっと楽しいってのより私は、お互いの心身の調子や具合、さらにストレスなんかの相互作用による差異を、影響違う時間や空間を体感してたいかも。
んーー心が踊ったり震えたり浮かれたり乱れたり、己の心を掴まえるのもできないんだなーー自分の心の行方を見失わないようにっ。
▼死体ごっこ、のような絵になってて、彼の目が死人みたいでよきかな
桜の木の下には死体が眠ってる!ということで。
春を慈しめるな今年は。