亜きら - 抒情の部屋 -

初めまして。 京都SMクラブ傀儡堂、京都バルバラに所属している亜きらと申します。 素敵な時間と世界を共有しましょう。

抒情


水と火。 
清浄なるものでありながら、甚大な自然災害をももたらすもの。
まさに畏怖。

私は畏怖の念というものがとても好きだ。
怖れ敬う。

そして森羅万象を感じるとき、自然に生かされていると胸に迫る思いを抱く。

風、陽光、草木、夜、月、星、土、川、それらすべての感触と匂いと音の心地。

感覚器官たる五官が粛々と生身に感じられるとき。

美しい。 
自然世界は美しい。とはまさに地球は美しいと呼ぶに等しい。
人間であるがゆえのこの衝き動かされる感性なのだとしたら、人間である我が身ももはや美しい。

夜を吸い込めば夜を吐息のように吐き出すし、星月夜が降りてくるようにどうかすると夜に同化する。
 
木々の葉影と星月夜。
ゴッホとムンクの星月夜を愛する私は、脳内射精不可避の自然絵画である。


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すべてを内包する夜はすき。
すべてのはじまりの朝もまた美しい。


ただでさえ感じ入りやす私が一際、世迷う夜の森。


射精。
Ejaculation.

しゃ せい [0] 【射精】

( 名 ) スル
外尿道口から精液射出すること。性器加えられる刺激により射精中枢興奮し、興奮が最高に達すると、反射的に起こる。

男性にのみ起こり得る生態機能。
素晴らしい。
そう素晴らしい。
それだけに我々女性には理解し難く、また私個人としてはSM行為においては重きを置くに届かない。
必要性が分からない。
"それ"で終わりを迎えるセックスと同じ軸ではないと思うから。
なので、敢えてSM行為中の最中、中盤で射精を強制するプレイを考えている。
射精は罪行為であると仮定し、罪を犯したならば罰を、と射精後にさらに裁きの手を下す。
射精後も君は私に支配され続けられるか?
というテーマである。

ほんのお遊びよ。


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ずっと考えてる。
脳内と心と精神世界はひとつなのかって。






秘密。
背徳感。
薄い氷のうえを歩くように、大切に扱わなければ壊れてしまう関係性。
まるで硝子の繋がりだと私は思う。

そんな秘密で繋がった関係に魅力を感じるのはヒトの性なのだろうか。

関係だけでなく、秘密にしなければいけないものほど依存性や中毒性が高いと思う。

そういったものは往々にして、"ほんとうはやめなければいけない"。

しかしそう思えば思うほど依存が加速する。
「やめなければいけないけどやめられない」、其れ自体をやめない言い訳とできるから。

他の人には言えないけどあなたの前でならさらけだせる、そんな性的倒錯もそう。

秘密を共有すれば、親密性が高まる。
だからなんだと言うのだ。

しかし、色々な秘密を抱えて生きていくのが人間だから
どこかでその重さから逃れたくなって、救われたくなるのだ。

やはり救われたいのだ。

しかしその秘密を共有することを利用する悪しき者がいるのも、また現実。

まっとうに生きてる人間がいれば、その人こそ壊れてる。
とかなんとか、中島らもが言ってたっけな。

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秋の夜長になにを思考する?


気づかないでいられれば、知らずにいたならば、それは無い現実と相違無い。

「在る」と解ってしまった途端に、非現実が現実へと成り上がってしまう。

しかしそれに反して生々しい感覚とか肉感的な感情とか、薄い膜を隔てた向こうの世界のもののように、まるで離人感をともなって現実が遠くなるあの瞬間。

どこにも逃げられない、自分は自分でしかなく、ここは現実でしかないと思い知る確かな時間。

頭が痛くなる。
血が濃くなって、眼圧は上昇し、重力がおかしく感じられる。

ひっくり返ってしまえば夢になる。

いっそ夢であれ。
すべてこの世の夢であれ。

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秋はすき。
十一月は私の生まれた月だからもっと好き。


自意識過剰。
自己過信。
過度の期待。

現実と自分を省みない事は人間的ではないと思う。
私はひどく内省的な性質を持つと自負しているけれども、それが正しいのかは知らない。

熱血的に生きてはいない。
し、そういう生き方は好きじゃない。
どちらかと言えば、静かにただ静かに生きていたい。
ただずっと変わらずに生きていく事は不可能だし、自分にできる事またはできそうな事であれば真剣にやっていきたい。

明日死んだっていい。
猫たちを置き去りにすることは心残りだけれども、いつもそうやって生きてる。

まだ今しばらくは生きているであろうから、最上の自分でいられるように、自分の美学は貫きたい。

みたいな。

人に委ねず、人に流されず、人に侵されない私だけの精神世界を持ち続ける事。

誰にも明け渡さない。


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こんな世迷言、明日には忘れているかもしれない言葉たちに過ぎない。


考える。
脳内で言葉達が泳いでいるように浮かんでは沈んでく。
浮かびあがったかと思えば、掠めとられてしまって、何を考えていたのかさえも杳としてわからなくなる。

ほんとうは噴きあがりそうな感情を押し留めているときに、陥りがちな状況。

ひたすらに自分を抑える。
衝動を。
どうせ数日経ってしまえば、過ぎた感情だったと凪いでくれる。

凪いだあとで、少し悲しくなるだけ。
所詮、この程度の思いだったのかと。
我が身ながら。

意識の隅で、影のような負の感情が踞っている。

そんな秋。
情感的でいられるのは、一日のうちの夜だけ。

眠る前の一時。
それだけでいられたら、立派な人間であろうにな。

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疲れている。
なにかに。
途方もなく、穴を掘り続けた底に埋もれていたい気持ち。

京都の町は嫌いじゃない。
ここに居を移してもうすぐ一年。

電飾ギラギラしていないし夜は暗いし、高い建物がないから閉塞感もない。

けれど、鴨川は少し小さすぎる。
侘びしい。京都の町は。

淀川のあの、十三側の河川敷から眺めやる、遠くに聳える梅田の都市群を見るのが好きだった。

夜の景色。
赤い航空障害灯がまるでロボットの目の光か、怒りのオウムの群れのようで。
広大な夜の淀川は、眠れる獣に思えて、流れの止まって見える硝子のような川面が美しかった。

日中の猥雑さを夜がすべて消しやって、百八十度どこまでも淀川で線引かれたあの光景は、とても私の気質にあっていた。

夜空もまたよく眺められた。
星はぼんやりながらも、大きな夜の空だった。
あの河川敷で流れ星を見た事も一度や二度ばかりじゃない。

なぜこんなにも懐かしく、そして欲しているのだろう。

鴨川に夜、座って眺められる景色は、乏しすぎる。私には。
それだけ。

良いも悪いもない。
大阪の街にいては、自分の存在の孤独感をありありと感じられた。
しかし京都では、すべてが溶け込んでいくよう。

鈍ってしまいそうで怖い。
なんとなく、感覚の生煮えてく恐怖を覚えた或る秋の日。


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ただの郷愁の戯れ言とはわかっている。 
いつもの世迷言。
しかし
気のせい、だと一蹴できようか?




浅はかな人間ではいたくない。
思慮深い人間でいたい。
だけど自分の感情と直感は確実に逃すことなく捉え続けていたい。

何かに思わず後悔したときに、誰かのせいにしたくないから。
あの時の自分がそう決断したことなら仕方ない、そう思える自分でいるため。

涼しい秋の夜長と思い、久方ぶりに走ったら気持ち良すぎて死ぬかと思った。
もっと涼しくなっていい。
冷たい空気を胸に吸い込みたい。

脳みそ冴えるあの感覚。
冬が今から楽しみでどうしようもない。

思うこと。
できれば指一本触れたくない。
指一本触れずどうにかなればいい。

だけど催眠とか脳イキとか、そういうのじゃない。
テクニックの話じゃない。

ただ感情だけで私へのレスポンスを示して欲しい。

だから、猫を見てると私はどこまでも愛しい。
あぁ、撫でて欲しいのね。
とか
ごはんが欲しいのね。
とか
言葉のない感情の表し方。

遠いそこからでもわかる、背中で物語るエネルギーの放出性とか。

BODYという映画の、ウィリアム・デフォーとマドンナのセックスシーンをぼけっと見てた。

マドンナがサディスティックな女性役の、チープな映画だったけど
ベルトで締め上げた彼に蝋燭垂らしたりワイン垂らしたり、
「My way」と囁くマドンナは美しかった。

それらは愛しさの上の行為でしかない。
セックスがゴールだから。

愛と言う名の性行為とSMを別としたとき、
感情とSMは交錯できるのか?

成り立つわ。必ず。

痕をなぞって愛しさを覚えはじめたら、それはもう病。知らんけど。


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自由の反対、自由じゃない状態とは、分りやすく、かつ自由を奪われたと言えば拘束でしょう。

勿論私も好き。
縄で拘束した相手を転がして、放置しておく事がたぶんいちばん好き。
拘束した状態で言えば。

一度、相手を縄で縛ったまま、その隣のベッドで私はスヤスヤ眠った夜があったけれど
とても良かった。
それを是とせず、拘束された状態でどうにかされたい人々が多いことも承知だけれど。

前置きはさておき、しかして私は自由の反対とは、規則、制約、統制。
だと思っている。

刑務所での囚人の生活など、とても良い例で私の好む掟の上での生き方。

己の自由判断で行動できず、規則や時間で縛られると言えど、苦しむのは最初のみ。
何故なら、人間には耐性と適応力が備わっているから。
さらに言えば、忘れるというオプションまで脳内は働いてくれる。

慣れてさえくれば、最初の苦しかったことも忘れるのです。

SM行為においても、痛かった事や苦しかった事は覚えていても、仔細な痛みまでは記憶していないから、その痛かった事や苦しかった事の果ての何かをまた求めるのかもしれない。

とにかく、言葉での制約が成立すれば、それはとても気持ちが良い。

縄や拘束具を使わず、まるでそれらでもって拘束されてるのかのように、
私の「動くな」の言葉で身動きできなくなる。
一切。

精神支配とかそんな大層な事でなく、ただ目に見えないなんとも脆弱な言葉というものの力で相手が屈している。

素晴らしいでしょう。
ただそこまで辿り着くには、少なくない時間を要したい。

ゆっくりゆっくり。
一年、二年、三年。
そしてさよなら。
なんちって。

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秋らしい夕空の下、大好きなRadioheadを聴きながら歩いた。
それはそれは快かった。
秋の風は心を透く。

少し感傷的になるかと思いきや、
情緒的になる具合も、やはり若い頃と比べると随分マシになったと思う。

そしてそれを寂しく思う。
ある意味での感傷。

秋の気配を感じるだけで泣いてた自分を思い出す。

たとえ外の世界がどうあれ、自分は自分でしかなくて、
だけどやはり外の世界と内の自分との融合に音楽が介在すると、
心でじんわり何かが生まれる。

それを忘れたくない。

これが私だ、とも思う。
いちいち何かに感じ入る。

五官で感情を掴むような、
胸のあたりに浮かぶほわほわしたもの、
それを脳内で感じられなきゃ
世界は無に等しい。

世界を見ても美しいと思わなければ、心が感覚が脳みそが反応しなければ、世界は美しくないのだ。

あぁ秋から冬っていい。
とてもすき。
ずっと感じていたい、秋の気配。

漂うものや匂うもの、見えるけど触れられないもの。

愛しい。
それだけ。

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自分の内側の世界を、どのようにして表現するか、どんな方法よりも私にはやはり言葉として綴ることが何より心地がいい。

だがこの記事の文章は少し雑であるのは内緒。
書き殴り
殴り書きではなく書き殴り。

おしまい。




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