亜きら - 抒情の部屋 -

初めまして。 京都SMクラブ傀儡堂、京都バルバラに所属している亜きらと申します。 素敵な時間と世界を共有しましょう。

抒情

去年は今思えば沈静と呼べるほどに途絶えつつあった或る出来事が、年末あたりから少しずつ活性化しはじめ、ついにはオナニーひとり芝居を強制観覧させられてる気になるほどに。
めんどくせえ。
サイバー社会とは甚だ絡まった電気コードの渦。

びゅんびゅん生死を掠める信号が行き交うも目には映らない世界。今の世の中。
一時停止。できれば暫し停止。
背後から撃たれるだけならまだどうにかしようものを、もしも遠い窓からの見えない攻撃が行われたとしたら、
もはや誰が敵かわからず、むしろ誰も敵でありえてしまう。

だから身を守るためには
隙あらば喰われかかる世界と見て、いつでも戦闘態勢でいるくらいがちょうどいいのかもしれない。
しかし臨戦状態を示すことは、相手の存在・行動を全面的に受け入れている状態ということになるでしょ。
無言の受諾。

ゆえに私はノーレスポンス。
反応することをしない。無視じゃなく無反応。反応のない状態のこと。刺激として作用させない。わたしの裡で。

2018年型亜きら、沈思黙考。深いところ。潜行。徹底的にダイバーダウンするぜ。
存在ごと完全否定したいところや1ミリの運動エネルギーをも費やさない。
静観。
深沈。沈。静々。


上の話とは別に、ふと思い出に触れたくなってしまったために
終わった関係性の不用意なところで再度傷を負ってしまった。
私の2018年早々、フレディも夢から出ていきそうな悪夢まがい。情けない。

楽しいこと嬉しいことももちろんありました。
内緒だけどね。
このブログは私の情動、感情のおすそわけ。
感情ジェットコースターと揶揄される私の。

ではさいごに。
はじまりの行方を見失わないことが大事。
少しでも感情が動いた時にはそれを受け入れること。

愉快でない。不愉快とはちがう。面白味のない。底が浅くなった。水嵩が減ったのやもしれぬな。
浅ましいかな、何を言ったところで本人がそれが幸せと笑うかぎり、幸せ以外のなにものでもないでしょう。


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逝った年、2017年。
変化の年だったかも。
内部の。
しかしたくさん学べたこともあるなか、趣味である読書がてんで駄目だった。
年間百冊を緩い目標に設定していて、大体80冊くらい読んでたのが昨年は20冊も読んでないんじゃないかな。
積ん読は増えるばかりなので、今年はそれを消化するしかない。

そう、新しい2018年。平成三十年。
平成三十年、←この字並びが最高、きゅんきゅんきちゃう。
以上の事からも察せられるように、心臓がぶるぶるくるくらい、今年という日々を最高に過ごせるともはや確信しています。
肌にもびりびりきてる、あーーー最高だなっ
と、冷えこんだ朝のまだ暗い世界へ叫んでやりました。快感。
関係ないけどベランダの窓を開け放つ瞬間、がなんか無性にすき。

最高に最高。最高すぎて最高が最高。最高にもほどがある。最高な最高をありがとう最高様。

ほれ。字面にすら惚れ惚れする最高然とした最高たち。

あ、ゲシュタルト崩壊前にやめよ。
今年も亜きらわーーるどへ誘ってさしあげてよ。たぶん。たぶんね。(しかし最高)

私のプレイの進め方というか、段階的にレベルをあげていくとして、
それは煙草税の値上げのやり方と似ているかもしれない。と気づいて2018年。
 
1月中に、再び夜々様とのW女王様イベントを十三にてやっちゃうし 
わたし個人としてはもっと引き算したプレイをしたいかなっと。

詳細は傀儡堂受付まで。

ではいつでもどんなときもムラムラしたときもブレインショックなときも楽しいときも悲しいときも、それを最高なものとして感じていきましょう。
あぁ、これは意味のない言葉だし明日には私も覚えてないかもしれないけど、最高でしょ。

かしこ。


05








サロメちゃんとは
サロメ(Salome または Salomé、ヘブライ語: שלומית‎ Shlomit)は、1世紀頃の古代パレスチナに実在した女性。
らしいですけれど、サロメと言えばオスカー・ワイルドの戯曲が有名、かく言う私も漏れなくすき。元祖ヤンデレ代表に相違ない、と崇拝に近い愛を抱いているるる。 

こないだの誕生日の車椅子つかったショーのときも、ほんとはサロメたんの生首シーンをしたかったんだな。
 
芸術の題材として幾人もの画家に描かれているサロメたん。
▼そのうちのほんのいちぶ。
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▼こちらは戯曲として演じられたサロメたん。
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美しい。
ちなみに我が家にはビアズレーの画集と漫画版サロメもどっかにある。はず。

そして私がこよなくサロメとして心惹かれるのはこれ。
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パスキンは最期の死ぬときまで芸術的ですきだ。


好きな人の首が欲しいかと問われれば、それはイラナイと答えるでしょう。
阿部定のように陰茎だっていらない。

大抵のSM官能小説では殺す殺さないで終焉となりがち。
命を奪ってしまったら、この手で終わらせた事実だけが重くなっていく予感しかない。
奪われてしまった人達からの責苦にも耐えれらないであろうし、
死ぬならひとりで気をつけて死ね。と思う派なので可愛さ余って殺しちゃうってのは自分にはないかな。できない。

とか言いながら、
強い感情でもって誰かを殺したいと憎悪を滾らせたことが過去に一度だけ。

私に死ねっと言われた事のある人が、後年死んだ。自死。
そこにどんな理由があろうと、私が「死ね」と言った事実だけは今もしっかとここにある。

生きてる限り、記憶から消えなければあり続けるもの、というのは
どれくらいあるんだろーね。
残っているものの方が少ないのかな。
あれから増えたものが手から余りあるくらいと思えたらいいな。


いつもPlAYをはじめるまでは、(あれしよう)とか(やっぱりこれもしたいなー)と脳内ワンダーランドかのように色んな可能性を想像して悩む。
そしてそのじかんがきらいじゃない。

私のあたまのなかでは最高なSTORYが出来上がっていて、あとは受容する側であるMゾヒストの反応あるがまま。
 
の、はずなんだけどやっぱり飽くまで予定は未定で決定ではないんだよねーー世知辛い。

はい、ここからSTART!って はじめるわけじゃない けれど、
その地点からすでに未来は白紙状態、
ド頭からぱすんと何もかも飛んでって白紙にRESET.
つまりGOALへと到達したときには冒頭のシナリオは無意味な無存在に。

でも私はそういう、その時の相手や空気の感じによって変化していくナマモノ的なプレイがわりとすき。

そして、以下は前回同様に鞭でもなんでも頑張れば撮影可ぷれいのようす。 

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▲手にもってるものはなにかなー


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▲これはさいごかな~
 慈愛の精神があふれだしてるね


捕縛されて、動けない状態、状況。
であることに興奮して、ほんとにほどけない事を確認するために縄脱けを試みようとする。

私はそれを傍らに見て、ふごふごする姿を楽しむ。
最高に楽しい。

そんなじかん。
でも、その上からぺちぺちしたり、がぶってしたり。
さらにおちょくる。もとい玩ぶ。

そんなあそびもすーき。

12月になると、焼けた田んぼがすげーエロティックだなと思う。
寒々とした景色、
私の好きな水田は性的さは微塵もない。

来年までのお楽しみ。


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12月も目の前に、今夜はひどく寒い夜でした。
寒い思いするくらいなら、着ぶくれる。
亜きらもいよいよそんな歳ですが、
冬は好きでも寒さは強くねえよ。2017。
よく冬がすきっと言うと、「じゃあ寒いの平気なんだ」ってわけわかめな決めつけ論、が面倒。亜きらです。  

失礼、つい罵詈。
気を取り直して冬は冷えた空気がぴんとして、どの季節よりも辺りと時間に静かさを感じられるからすき。

星や月も透けて見えると体感でわかるから
だから缶コーヒーと煙草を手に、堤防から寒空のちっちゃなお星さまを見上げてひとり精神の浄化。

たまに真夜中のランナーと相対してお互いの存在にびびりあうのはいいとして、先客にカップルを見つけると迷わず踵を返す。即。
家のソファでちちくりあっとかんかいと。

確かに夜眺めるには綺麗だけど。
川向こうには高層ビル群と観覧車が遠く息ひそめて見える、 たまに流れ星もキラリ。私のおうちからすぐの川岸。


いつも私が思い描く事、
流れの止まったように見える夜の川は硝子細工で、

点滅するビルの航空障害灯の赤色はまるで生き物の呼吸か怒りのオウム。
おとぎ話のつづきみたいに。そんな空想、
真夜中のさんぽ。

絵本で見たようなメルヘンちっくな三日月の夜に、ありがとうさぎ。


自分達が日々時間を消費している現実生活は綺麗なものとは言えないから、嘘の世界は童話のままに、綺麗で幸せな結末でいてほしい。私はそうあってほしいと願うわお星さまに。

あまりに空想が過ぎると、あたまのなかがおもちゃ箱になっちゃうから
気をつけませう。


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振り返り亜きら。
いつでも名を呼ばないとだめ。









夢を見た。
私の大っ嫌いな虫、ミドリのバッタ。それもスーパーでかい所謂トノサマバッタと呼ばれるあいつ。
あれを手にした女の子に「うりゃうりゃ」と、私の顔面にこすりつけられるという、
虫責めのなんたる悪夢か。

死んだほうがまし、と思わせたならば拷問成功なんだろうな。

拷問のように、悪夢を味わせて機密情報を吐かせる、なんてことまではしませぬが。
SМを通じて、その人の深層にある欲望や、日頃抑制されている感情を発露させることは少なからずあるし、私はそれがすき。

SМに関してだけでなく、ヒトの感情の揺れをダイレクトに感じる瞬間が、すきだ。
感情的であることや涙をよしとせぬヒトの生々しい感情ほど、ぶるっとくるものはない、かもしれない。

ただ最近思うのは、自分が誰かに影響し得るということが不思議だってこと。

私はできれば誰にもなんにも影響することなく死んでいきたい。
なにも残さずにいたとすれば、それは無かったことと同じになりはしないかって、無駄な思考。
花は根っこさえあれば何度でも咲くことができていいな、と思ったこと、ある?
もしかしたらこの世に倦んで、「もうおやめくださいまし」とか「こらえてつかあさい」とか願う花がいるかもしれないのにね。

考えすぎて頭でっかちになって、私の言葉がないとうまく泳げられない姿はとても愛しいけれど、
たいてい思い込みなだけで、案外どこまでも泳いでいけるものなの。


2017-21-08-05-38-47
近頃太った私は、これはこの世の夢だっと言い聞かせてるけどちゃんと痩せます。むしろ今やせた





たんじょうび。
足を運んでくれた方、お祝いのメッセージくれた方、みんなおTANK YOU♡

去年よりもひとつ出来ることが増えてたり
一昨年よりも少し自分のこと好きになれてたら、
それでいいなっと私は思う。

反面、昔はできていたことができなくなってしまうのはとても悲しい。
然しそれも起こりうること。けっこうな頻度で。

生まれたら、そこから数えられていく自分の生きてきた年数。
自覚がなくてもその頃になれば発情して子孫を残していく動物と違って、

ヒト科は意識していないと、この年齢では何をする、ってことが見えなくなっちゃうんだろうなって。


見えなくなると、動物と同じになるのかと言うとそれは違って、
きっと動物になりきれなかったヒト科か
ヒト科になりきれなかった動物、のような様相を呈して生きるのは嫌だなってよくわからないはなし。

私は、たぶんここにいなくても私だけど
みんなにお祝いしてもらえる私はいなかったはずだから、
今の私は幸せ。ってことだな。

かしこみかしこみ。

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年末にかけて、年忘れSM忘れないようにしなきゃね。

私が小学生の頃好きだった歌を、久しぶりに聞いたらやっぱりすき。
眠り歌のような、揺籃のような心地よさ。
ゆーみんが歌うやつ。

誰かと眠るとき、心臓の鼓動の音が聞こえると安心するし、それが自分の鼓動と重なってどっちがどっちの音かわからなくなる瞬間を思い出す。
心地よくてふわふわ。
胎児の頃の記憶なのかなって少し楽しい。

安心したいんだな人々は。
一人の人間ともう一人の人間のあいだには、細胞すら行き来するくらいくっついたってひとつになれない壁があるから。
さみしいから。
夜が暗いから。
いつか死ぬから。
こわい。不安。そんな怯えをうそみたいに消してくれる安心感、いいくすりです。

安らぎ。そよ風。
しかし安心感と刺激を同時に手にすることって、たぶんできない。
対義語でもいいくらいと私は思うくらい。
の、はずなのに、苦痛や責苦を甘受したその後で、安らぎに抱かれたように安らかな顔を見せる人達が多からずいるね。

大泣きしたあと眠くなるようなものかしら。


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たまにバルバラにてセックストークが盛んな夜がある。
最後にしたセックスはいつ?なんて問われると遠く忘失した記憶は役立たず、
最後に海苔弁食べた日を思い出す方が容易だってはなし。

今までいちばん気持ち良かったプレイまたは性体験は?ってな類の質問ももはや倦怠、飽き飽きでしょ?
それに今のいまがいちばんでなきゃ私はやだ。
自分にとっても相手にとっても。

ただ忘れることのできない感覚なら、ある。
もしもそれに執着したり追体験したがるとすれば、本質的なマゾヒスティック性となるのかもしれない症候群。

実は、私は海とセックスしたことがある。 
なんてなことない、夕日迫る波打ち際に友だちと足をのばして座っていると
ちょうどお臍あたりまで押し寄せる波が引いては返し、またお臍まで濡らす。
その感覚がまさに「あ。わたし、セックスしてる!」
と思わず叫ぶくらいめちゃくちゃ気持ちよくて、見ると友だちも同じ感覚を共有してるってすぐにわかった。

ほんとは同じじゃなかったにしても、こっちが共有してるって思えるだけでそれはもう同じこと。 
海とセックスしてる感覚と、それを友だちと共有してる感覚、どちらも私にとって受動的な最高の快感だった。
今でも。

脳みそなんて低スペックなハードだから、なんでも人生すべて思い込み。
だって、私たちが私たちでいられるのも記憶の蓄積された構築でしかないと思うもの私は。
自我なんてあやふやなもので、これは自分の記憶なのか誰かの記憶なのか、定かでなくなるような記憶のすり替えもよく起こるはなし。 

自分自身を忘れたら、それは私と言えるのか、と無駄に考えたこと数億回。

記憶喪失になったとして、それまでの自分と、そこから構築される自分とを比較するための実験があればいいのに。

要はセックスもとい性的行為なんて思い込み、ってことよ。 
脈絡ない話を脈絡なく終わる。

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