亜きら - 抒情の部屋 -

初めまして。 京都SMクラブ傀儡堂、京都バルバラに所属している亜きらと申します。 素敵な時間と世界を共有しましょう。

2020年02月


ビンタ。平手打ち。
腹や背へのもみじ。
もしくはグーパン。もとい腹パン。

好きです。

自分の手でどうにかすることは。


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私からの視線は動けない状態の相手、
そちらからの視線では、動けない状態にされた自分。

なにをどうされようと幸せでしょう?





何かよくないものが、私のあばらをとぐろ巻くように締めつけてくる。
そうして肋骨から背骨から伝って肉のなかにまで侵入してきて、私をぶよぶよと膨れ上がらせる。

どんどん私の内側で増殖していくそれは、そのうち心の方までも侵してきそうでとても嫌。とてもとても嫌。

歪みや痛みはないままに、ただ目に見えないどこかで私を苦しめる何か。

春の予感のする夜とか、生温い朝の目覚めとか、希望に満ちた白い陽射しとか、そういうの、すべてに嫌気がさす。

今年はとくに春がはやくやってくる予感しかない。
頭痛が教えてくれる、木々の圧。

一日が終わると季節が進む。
命も短くなる。


私のできる事は、数少ない。
その少ない中で誰かと誰かを救えるか。


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救われたいか?
私は救われたい。




死ねよ。死ね死ね。
死ね死ね死ね って思うよ、時に。

面倒くせえな鬱陶しいなって。
自分自身。

だけど、だからってそれが何?

結局生きて死ぬしかないんだから、生きてくだけだ。

それならば、どうせならば、自分をまっとうに最高にイカす生き方をさせてあげたい。

最近ちょっぴりそう思う。

糞みてえな人生の果てに犬死にしたかったっけな、今より随分と若い頃は。


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思いの強く揺るがぬ精神は、美しいな。







この頃、自分の内側を閉じがちになってしまっているようだ。
内面世界ではしゃぐ内向きな自分を。
あまりに自分に閉じ籠り過ぎるがゆえに、世界と繋がる必要がある、そう思って生きはじめてまだ日は浅い。

が、ふと振り返ると、こんなにもあの時の自分から離れてしまったのかと驚く。
それは良くも悪くも歩み進んでいる事に変わりはない。
ないはずなのに、どこか寂しい。

自分で自分の肩を抱くような夜に沈んでいた、そんな情景ももはや懐かしい。

強くなったのかもしれない。
多くの事を無視できる強さ。

外界からのエネルギーに自分が負けないでいられるなら、それは本望である。
と、現在言い得ないのが私の未だに弱いところかも知れない。

人間の弱さこそを美点と捉えてきたふしがある。

それともただ自分に酔いたいだけか。
悲しさに耽っていれば、およそ現実を直視せずにすむ利点がある。
逃避するための言い訳を並べては自分を慰めればいい。

きっと、そこから立ち離れつつある私へ向けて、あの頃の私が妬みの眼差しを投げ掛けているだけだ。

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ほんの世迷い言。
もうすぐ春がやってくる、春は嫌いだ、
あの憂鬱に浸る用意はできている。







やっぱり、死ぬ理由がわからない。
いずれ死ぬのに生まれる意味がわからない。

そんな思いを、ナイルの死と、母親の命日をと迎えて考え耽ったりした一月の終わり。

しかし私は以前このブログに書いたとおり、ナイルを初めて見たときに死を、命の終わりを感じる姿に惚れたがゆえに動物園に通ったのだ。http://jojoh.blog.jp/archives/28802732.html
(ナイルについて書いたブログ)

2019年のうち、京都市動物園へ足を運んだ回数は14回。
最期を見届けたかった。
今際の際と知ってから三度涙したものの、やっと楽になれてよかったねと安堵したのも事実である。

いずれ生きとし生けるものは死ぬ。
それならば自分の世界だけは決して失うことないよう大事にしていきたい。
私は。


さて、そんな私に惚れこんでいるある男との夜のこと。

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私が彼を虐げるのは31回目だったという。

プレイなのかセッションなのか調教なのか、呼称は私はどうでもいいと思っている。
ただ私の事が好きなのであれば、それを身体で伝えてみろってだけの話だ。
そしてどこまでもついてきてみろ、とも思う。

昔から頭のおかしかった私は20歳時分の頃、私の事が好きならばそれを伝えてほしい、と付き合っている男に煙草をおしつけたり、煙草を食べる事などを強要していた。

結局私のSMはその延長線にあるのであろう。

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▲半泣きで私へ近寄ろうとしてくるこの姿は、とてもいじらしかった。


そしてさらに打擲したくなる。



おわり。

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