亜きら - 抒情の部屋 -

初めまして。 京都SMクラブ傀儡堂、京都バルバラに所属している亜きらと申します。 素敵な時間と世界を共有しましょう。

2018年06月


救われたいのだ、結局のところ。
世紀末思想だとか厭世的だとかデカダンスだとかマゾヒスティックだとかパーティーピーポーとか、要は今現在の此処とは違うどこかへ思いを馳せている事に違いはないんではないかと。
半ば暴力的に思う。

通常、無常ゆえに生き物は時の流れのままに生きていれば脆くも死を遂げる。生を遂げる、ではなく、生を為して死を遂げる。
そこから逃れるためでなく、その終わりくらい自ら選択したいと望む人達がいてもおかしくないと思う。

し、そういう世の中だ実際。
メキシコでは殺人がニュースにならないように、日本ではいちいち自殺はニュースにならない。
それが頷けるのは、そこそこ生きてると誰かが自殺したって話はそう珍しくなくなってくるから。

知人が死んだと聞いた。
すぐにその人なら、自殺だろうと思って、思ったのに「なんで?」と聞き返してしまった。
恐らく確かめたかっただけで、返ってきた答えはやはり自殺。

賢い人だったから、何かを半ば諦めたように生きてた。
それが原因かはわからないけど。

あっち側でなくこっち側。
それだけ。

イルカは自殺するらしい。
それがいいか悪いかは別として、悲しい事には違いないな。

07


死ぬくらいなら、えすえむしてよう。



仲が深まって、相手の表面的でないパーソナリティを知れた時、
心を開いてくれたってわかる瞬間ってなんとも言えない嬉しい感情が胸を衝く。
安心というか、なんだろう。
極端に誰か人間の感情発露の様が好きで求めるようになると、SМ世界へようこそですが。

要は『心をひらく』=気を許すとか信用とかそんな類いと似たもの、かな。

私達SMプレイにおいて女王様と位置づけられる人間としては、プレイによって相手の潜在的なナニカを開いて引きずり出せたら最高の上位でしょう。
実際、私は自分の描いたとおりの手によって、相手の感情までを操作できたと思える時がプレイ至上幸せかもしれない。
もちろん長い時間をかけた長期スパンでの話。元スプリンターだから長期戦は苦手なはずなんだけど、SМ七不思議の九つ目。
 
しかしそう簡単でもないのは周知の事実であって。

M側の人々は、相手に身を委ねるという受動的な行為のみ。
そこにどんな手が加えられどんな化学変化となるかは、様々な要因によって左右されるものでしょ。
ゆえに相手にどれだけ心を反映できるか、またはそうなっても構わないと思えるか、自分の側の心に嘘つけないと思うね。
同じ相手、同じ場所、同じ方法で再び試したとて、導かれる結果まで同じものとは成り難いのが世の常無常なる。
かと思えばあっさり発生するマンネリ化現象。

いかような時々も、お互いの、二人の心の状態がひどく影響するゆえに正解がないのでせう。人による。個体差。パーソナリティ。
なんと便利でこれ以上追及性の不毛な言葉などありましょうか。
心の具合も体の具合も、それぞれがそれぞれを感じている。
そんな世界。
なんで月は青くないと言えるのか?と愚問からはじまる休日思考の渦。
だって相手の心が開いた瞬間は分かったとしても、自分の心が開いた音なんて聞こえないし分からない。
開いたところで空っぽのガランドウだったらどうなるって言うのよ?とかなんとかもはや魘されながら堂々巡りの脳内思考でぐるぐるぐるぐる。渦。
渦というのはねぇ、水槽のエアレーションの水泡を追いかてると、ずっとそこで一点のみ、くるくる終わりがないよう。

ここで横道しますが、堂々巡りと見ると、いつも日本三大奇書にあげられるドグラマグラであった堂廻目眩って言葉を思い出す。
目が眩むという言葉がすき。
目が眩むと言えばムスカ。又の名をロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ。

そのムスカさんは物語において他人を少しも信頼せず、自らの心を誰かに開くこともなく、失意のままに目をやられてしまいました。
そうつまり心を開けばラピュタはそこにある、と。

それほど心を開くとは大事であるという話。殊更に。いやはや甚だ胡乱か不明瞭、しかし後ろ髪惹かれ隊。

※上記の文章における正確性や信頼性については個々人の心に起因するものであり、確かな将来の結果を保証するものではありません。

詳しくは傀儡堂まで。あはん。


01


▲とあるメンタルヘルスクリニックの御言葉。簡潔かつ素敵でござんす。




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