亜きら - 抒情の部屋 -

初めまして。 京都SMクラブ傀儡堂、京都バルバラに所属している亜きらと申します。 素敵な時間と世界を共有しましょう。

2018年02月


たとえばそこらへんを歩くだれか見知らぬ人達を捕まえて、
「SMと聞いて連想されるものは?」と問えばきっと、さして悩む間もなく返されるであろうその内容たるや、目隠しや手錠、全身黒に身を包んだハイヒールの女王様と鞭!
…とい事となるだろうとこれまた容易に予想していたのだが。

それはつまり抽象化されたSMのイメージが、所謂SMグッズと切り離す術もないものとして既に皆々様の裡に出来上がっているってことでしょう
ひなまつり=金平糖のように。

隠微さや後ろ暗さの皆無であるSMプレイ
あらゆるものの普遍化する速度というか世の流れが、400m競走のそれと同等くらいに思うこの頃。
つまり現代人の形態が、
人間の

容易く手にしたものは容易く失われていく、因果的に。 
それこそ気軽に色んな人と繋がれるSNSは、まさにお手軽な縁のはじまりと終わりの坩堝かに思えてならぬ亜きらです、こんばんは。

もうすぐ春がが来るとは関係のない
話で、
遡ること数百年。17か18世紀のフランス革命とかそのあたり、ヴェルサイユ宮殿だのバスティーユ牢獄だの、薔薇も気高く散りそうな、飽くまでおフランスで生まれた物語。

ソドム百二十日に描かれたサド侯爵の精神か欲望が、依然として現代的なSMプレイの底流をなす一方で、あれ以上のSMは生まれていないんじゃなかろうか。知らんけど。  

灰ずんだ古城と同色の土壁、天井から吊り下がった鉄の拘束具。
これらは西洋のBDSMと聞けば連想されるイメージ、つまりしょっぱなに植えつけられたサド侯爵による印象そのもの。
少し脳内にちらつく血の侯爵夫人物語は片隅に押しやって。

さて 物々しい雰囲気から漂う嗜虐性、マゾ側からすればこれから行われる責苦や展開を予想し、ひいては知った快楽をも覚え得るエロティック性。
こうした観点では、場所に姿格好といったシチュエーション、そしてずらりと並んだ凶器の数々(所謂SMグッズ)。

それらを目にしたマゾ側の記憶か感覚が反応した時が、SMのスタートと言えるでしょうね。
そして、 それゆえにSM行為イコール道具ありきだと。
日頃重たいキャリーを引きずってる身としてはYESと言わざるを得ないところだけど、私個人としては道具などなくてもお互いの認識に依ると思っている。

しかし、女王様であるためには道具は必要と言えるかもしれない。
 
道具ひとつない空間で行われる行為もSMたりえる派、に与する私としては、あるプレイに際して少し思うことがあったのだ。

以下は最近あった出来事。 
簡単に言えば突発的に生じたプレイ。
そのきっかけを見逃せば、次はないかもしれない事から決断し、ホテルへ到着するも、そのとき手元に在った道具らしきものと言えばこちら↓
アナルローターひとつ。ボンテージテープ。ローション、以上。
簡素。簡素すぎて寝たい気分に襲われたくらい。
このとき、やはりプレイするとなればある程度の道具を求めると気づく。

試行錯誤しながらコンドームにティッシュや歯ブラシつめて簡易ディルドぶってみたりしたものの、相手のけつまんこが解りやすかったので、指で責めることに。この私の手と指で。
結果、たった私の指二本でメスイキに到達するまでと相成りました。いえー

まじで指吊るかと思ったけど、一度震えちゃうと止まらなくなるのがおちりだもの。

最初数分は道具なさすぎてそわそわしたけど、申し訳程度にボンテージテープで目隠しをしたら、久々の視覚ゼロ感覚も味わい深かったとかなんとか。 
耐性からの脱却、ってやつかな。(テキトー

 最後になったけど、
こちらの「動くな。」の一言が、透明な拘束具を嵌めたように動きを制限する相手の桎梏となるならば、それはとても文学的であると同時に私の悦に入ること。

こんかい、言いたいことの一割も書けてないけどまだまとまらないからこの辺で許しといてあげる。


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春は憂う。
いとも容易く、幼かった頃の懐かしい切なさを体感させられるから。



よく出前をする中華料理店の出前担当のおじいちゃん、それがさぶちゃん。
さぶちゃんはあまり何を話しているかわからない早さで、いつもまくしたてる。
そのうちでわかっていること。

74歳(たぶん)
三年まえの時点で、嫁と両親みんな亡くなった
元気に見えるが糖尿とどこかが悪くてつい最近20日間入院した
一人称がさぶちゃん

ほんとに元気(に見える)し、いつもべっぴんさん言うて楽しませてくれるから
ほぼさぶちゃんと話すために出前を頼んでいるようなもの。

さぶちゃんはいつも言う、
「死ぬのは怖くないが車イスだけはいやっ!!」
この言葉だけはいつもはっきり聞こえる。

元気でいてね、さぶちゃん。

ちなみにここの黒酢団子合えは551とならぶくらいうまい。
のに春巻きはまずい。

ある話。
知り合い宅の水槽にて。
少し大きなエビがちんまいエビを弄んでいて、果てにそのエビ(小)は死んでしまった。
ちなみにエビ(小)は、今うちにいるラスプーチン一家と同じ種類。

一部始終を見ていた私は思いがけず悲しみがやってきて、半泣き垂れ流しながらこう叫んでいました、
「あいつ(エビ(大))殺してよ!!」
もちろん知人は拒否。
自然界でも有り得ることだと至極まっとうな意見にも感情論引っ提げない私のしつこさに、「じゃあ違う魚の餌にする?」と知人の一言。

その瞬間自我をひび割る電撃、のような衝撃をうけた私は首を縦に振ることできず。
愕然とした。
私のせいで誰かが(エビ(大))死ぬ。その責任というか命の重圧に耐えられないと知ったから。

エビでさえ死をもって償う行為を容認できないのであれば、私はきっと、家族が凶悪な殺人犯に殺されたとしても犯人に死刑を望めない。
望まない、とは違う諦めに近い選択のようで鳩尾あたりがぎゅっと痛かった。

いつかにも書いたけど、私はサディスティック性でよく語られるような、誰かを殺したい云々を
欲しない。
命の責任を持ちたくない。つまり後々の後悔や周囲からの責苦や残る記憶を自分のものにしたくない。

どうせならそれら全てを相手に植えつけたい。
殺させたい。

好きすぎて殺したい派の人たちは、相手を自分のなかに閉じ込められるからと天城越えるだろうけれど、 これを逆手に、「おまえの心にいつづけられる」と愛する女に自分を殺させる男の話があったな。
あなたを殺すなんてできないと泣く女に、「おまえの愛はその程度だったんだな。別の女を探すよ」云々の言葉で殺意を煽るシーンが印象的だった、
たぶん悼む人。

私はこっち側のが子宮がきゅんとする。
自分はイヤだけど相手には求める。ジャイアニズムを愛してるし。
俺のものは俺のもの、おまえのものも俺のもの。

そう、涙一杯に溜めた目で「好きです、殺させてください」なーんて綾瀬はるかに言われたら即死だろうな。

なんちってね    





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