三月。春ですね。

 春はなんか憂鬱で、繭のなかにいるような倦怠。

憂鬱とまで言わなくとも、こんな印象を受けたことはあると思うの。

以下引用ですわ。

春の幻
春を想うと、ただもやもやっとした世界の幻が浮んでくる。それは日向に蹲ってる猫で象徴される。日向の猫の眼が、細い瞳をぼんやり開きかけては、またうっとりと閉じていくように、春の息吹きは、あらゆるものの眼を閉じさせる。冷い空気と暖い空気とがもつれ合って、なま温い靄を蒸発させ、光と影とが入乱れて、茫とした反映のうちに融け込み、物の輪郭がくずれて、太い柔い曲線にぼかされ、あらゆるものの露わな面が――その奥から覗く神秘な眼が、宛も息を吐きかけられた硝子のように、ぼーっと曇っている。何一つはっきりしたものはない。凡てがぼやけている。うとうととなごやかに仮睡している。


ね。

この時期とこの先、冬枯れから春の芽吹きへと景色を変えるため、木々や植物たち自然がぐんぐん成長していくあの生命エネルギーに圧倒されてしまう。萌芽、はじまりのとき、木の芽時。

その生命力に精気吸いとられるへなちょこにんげん。


春の息吹そのものは自然伝える地球の胎動みたいで嫌いじゃない。むしろ素晴らしいと思うし、つねに自然に勝てるわけがないと思い知らされてたい。


夏の暴力的な夕立ちと隠れもせぬ暴力性とか、自然界の力強さをありありと目にしたときの興奮といったらもう、ヴァイオレンス。じゃなくてプライスレス


雷鳴、雨音、心地良い静かなるうねりも束の間。聴官切り裂き臓腑を抉りつけるような狂暴音響かせながら、激動の雷雨が世界を揺るがせる。

叩き打つ雨と鳴り止まぬ落雷が気違い沙汰に音を争せ、その様はまるで銃撃戦に居合せたようで。

銃弾から逃れて怯える身さながらに、葉陰に蹲ったまま。

自然の内なる脅威に心震わせ感動していたのでした。

自然さまへの畏怖だね。ifかもだけどね。

にんげんは、負ける。

にょきにょき生える緑とかのパワーに。

って昔先生が言ってた。

 

そんなのただの御託で、ただただ白っぽくぼけた春の雰囲気が憂鬱を圧しつけてくる気がするんですもの。

それに日が短くなって夕方が長くなると、夕焼け小焼けのまちぼうけが長く感じられるじゃない。

 

そんなあまりに恐ろしく憂鬱なる春の感覚について、色彩と光溢れる春は季節が自分と同調してくれないから、浮彫になった自分の感情と外の世界との差に悲しくなるんだとかなんとか、って

「ベロニカは死ぬことにした」でパウロがおっしゃってました。

今手元にベロニカがないから、確かな引用じゃないけどこんな感じだったはず。

自分の心とよく似た様子の薄暗い冬には気にならないという。

 

んんーーーー、書いたものの今の自分にはしっくりこなかった。

読んだ当時はぴったりと寄り添ってくれるような言葉に思ったのに。

 

今年は、なんとなくわくわくそわそわするようで、なんだか楽しく過ごせそうな期待が芽生えてた。

こたつ、いつ仕舞おうかな。

去年は五月までいたよこたつさん。

 

全然春とは関係ないけど、憂鬱なもの置き捨てておきますえ。



国立国会図書館デジタルコレクション - 慰めの国 - 詩集

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